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2011年5月17日火曜日

「ここからの民主主義」ための運動論 No.1(セタナー第2号)

「ここからの民主主義」ための運動論

第1回 「将来の民主国家ビルマ」

BRSA副会長 熊切拓
わたしは2003年からビルマの政治運動に関わるようになりましたが、単なる支援者ではなく、当事者のひとりとして時には民主化運動そのものを作り上げてきました(現在BRSAでわたし取り組んでいることのひとつもそれです)。そうした経験は、日本人のものとしては非常に例外的なものですが、少なくとも多くのビルマの人々はそれを許容してくださっているように思います。そこで、ここで今ひとたびビルマの人々の寛容さに甘えて、わたしなりにビルマの民主化を論じてみようと思うわけです。

ですが、論ずると言っても、わたしは、ちょうど研究者やジャーナリストのように民主化運動についてすでに起きたこと、既成の事実に関して報告したり、解説したりしようとしているわけではありません。そうした事柄は、基本的には傍観者の仕事です。しかし、BRSAの会員のみなさんはそのような傍観者ではありません。そうではなくて、民主化の当事者であり、その主体なのです。みなさんが民主化を引き起こさなくてはならないのです。そのような当事者の関心は、当然のことながら過去に属する事柄ではなく、これから起こるべき未来の事柄に向けられていなくてはなりません。もちろん、すでに起きた事柄について学ぶのは極めて重要ですが、それも未来の出来事に関わりある限りにおいてです。ですから、わたしがこれから論じようとする事柄も、必然的に未来の事柄となります。具体的に言えば、わたしは民主化をどのように実現したらよいか、という問いに、「当事者のひとり」として実践的に議論しようと思っているのです。

すでに述べたように、わたしは長い間、さまざまな民主化活動家や難民と行動をともにしてきましたが、そのなかでいろいろなことに気づかされ、また考えさせられました。

そのひとつに、どうしてビルマの民主化活動家は、民主主義を頻繁に口にするほどには、その民主主義が実現した民主ビルマについては語らないのだろうか、というものがあります。つまり、多くのビルマの人は民主主義を切望していますが、さて実際どんな民主主義国家を作りたいのかとなると案外具体的なイメージを持っていないかのようなのです。

これにはもちろん理由があります。わたしは少なくとも4つの要因があるのではないかと思っています。

まず、多くのビルマの人々は、軍事政権の支配下で育ったため、実際には民主主義がどのようなものなのかは知らないため、具体的にイメージすることができない、ということが考えられます。ビルマの人々はただ、軍事政権の支配が憎むべきものであること、そしてその逆の状態が「民主主義」と呼ばれるものであることだけを知っているにすぎないのです。とにかく民主主義は軍事独裁とは違う良いもの、迫害したり殺されたりしない素晴らしいものだという考えだけが頭の中にあるのであり、その民主主義がどの点が具体的に軍事政権よりも優れているかはわからないのです。
「わたしはビルマでは民主主義、民主主義と叫んでいたが、その実、内容はわからなかった。ただとにかく良いものだと信じていただけだった。日本にきてから民主主義がどういうものかはじめてわかった」

わたしはこのように語る声を幾度も聞きましたが、多くのビルマの人々にとってこれがまさに実感なのだろうと思います。

ですが、こう疑問に思う人もいるかもしれません。民主主義とは政治の基本事項のひとつであり、いかに軍事政権下でも、ある程度の知識を得ることができるはずだ、と。また、こう言う人もいるかもしれません。少なくとも難民として日本や、アメリカ、カナダなどの代表的な民主主義国に逃げてきた人々は、民主主義の社会に暮らしているのだから、民主主義についてはっきりした意見を持っているはずだ、と。

わたしはこの意見には一部同意します。つまり、軍事政権下でも民主主義について知識を持つ人は確かにいますし、また民主主義国で暮らす多くの難民は、ある程度は民主主義を体験しています。ですが、そうした知識や経験を持つことと、実際に自分の国、自分の状況に当てはめることとの間には大きな隔たりがあるのです。この問題にはまた後ほど触れることにしましょう。

2番目の要因もやはり軍事政権の産物といえるものです。軍事政権のもうひとつの特徴は極端なまでの権威主義であり、上に立つ者の権威は絶対で、下の者がとやかく言うことはできません。この態度はビルマ社会全体に染み着いてしまっており、残念ながら民主化組織もその例外ではありません。そんなわけで、民主化を求める人々の中には、ただ自分たちの組織の指導者がそれを良いものだといっているから、良いのだ、と考えている人もいます。つまり、こうした人々が民主主義を選ぶのは自分の頭で考えたからではなく、偉い指導者がそうせよといっているからにすぎないのです。これでは将来の民主主義国家ビルマについてそれぞれの立場から具体的に意見を表明する動きが生まれないのも当然のことです。

ここまで読んできて、あるいはビルマの人々は怒るかもしれません。わたしたちはそんなにバカではない、と。わたしはそれにも同意します。実際、個々のビルマの人と話してみると、中にはしっかりした意見を持った人がいることに気づかされます。ですが、そうした人が公の場で自分の意見を公表することは稀なのです。わたしはこれもやはりビルマの軍事独裁に関係あると思っています。つまり、どんなに優れた意見を持っていても、言論の自由のない社会に育った人は、自分の意見を表明することを恐れるのです。たった一言の言葉で命を失うおそれがある国では、黙っていた方が賢明なのです。換言すれば、ビルマでは賢い意見を言う人よりも、黙っている人の方が賢いとされるのです。死んでしまったら、賢いもなにもありませんからね。これが3番目の要因です。

4番目の要因も沈黙に関係ありますが、少しニュアンスが違います。先ほど、ビルマは権威主義的な社会であるといいましたが、それは偉い人や権力者の意見が正しくて、そうでない人の意見が正しくないとされる社会のことです。具体的にいえば、ビルマでは軍人の意見が正しくて、それ以外の人の意見は間違っているとされます。これは明らかに間違った考え方ですが、長年そうした状況に暮らした人はこの考えに馴れてしまって自分の意見に自信がもてなくなってしまいます。自分自身の考えが間違いだとされる、あるいは価値の低いものとされる状況を当然のものとして受け入れてしまっているので、自分がどんなに正しい意見を持っていても、それが自分から生まれたというだけで、なんだか間違っているような気になってしまうのです。これではなかなか自分の意見などいえません。

要するに、多くのビルマの人々の心の中には、こんなビルマにしたい、あんなビルマを作りたい、そんな夢や希望で満ちあふれているはずなのです。ですが、ひとつには恐れから、ひとつには自信のなさから、そうした思いは隠されたままになっているのです。

さて、みなさんはここである皮肉な事態が生じていることにお気づきでしょうか。それは、民主主義を切望している人々が、実際にはその逆の態度、つまり非民主主義的な態度をとってしまっているという事態です。つまり、民主主義とは、自分自身の頭で考え、その考えたことを何の恐れもなく自信を持って公表できることがひとつの基礎であるべきなのですが、実際にはその逆の態度から民主主義を実現しようとしているのが、現在のビルマ民主化運動なのです。これではもちろん、民主化などできるわけはありません。

いわば民主主義に対する希望と、それを実現するための実際の態度との間に乖離が生まれているわけですが、この乖離はさらに奇妙な状況をも生みだしています。

先ほど触れた第1の要因で、ビルマの多くの人々にとって、民主主義は、その内容に関係なくとにかく良いものとしてだけ理解されていると書きましたが、この傾向を極端なほどに推し進めてしまった人々が、ビルマ民主化運動では見受けられます。どういう人かというと、それらの人々は、民主主義を無考えに美化するあまり、あたかもユートピアか天国でなければありえないような宝物であるかのように考えてしまうのです。こうなるともうおしまいです。なぜなら、そのとき民主主義はその人の手から離れてしまうからです。そのとき民主主義は実現不可能な遠い夢となるのであり、人々がただ遠くから眺めて向こうのほうから「よっこらしょ」と重い腰を上げてやってくるのを待つしかないものとなるのです。

みなさんは、バカバカしいとお笑いになるかもしれませんが、これは実際多くのビルマ民主化団体で起きていることです。わたしはいくつかのビルマ民主化団体が、民主化を主張しているのにも関わらず、非民主的な振る舞い、手段、主張をするのを観察してきました。そのたびに不思議に思ったものですが、その理由のひとつがこれなのです。これらの団体は、あたかもこんな風に考えるかのようなのです。「民主主義なんてとてもじゃないが難しくて実現できない。だから、誰か他の人が(たいていの場合この他の人とはアウンサンスーチーさんのことですが)実現してくれるまで、じっと待つしかないね。そして、その待っている間は、もちろん民主主義の実現以前だから、民主主義的に行動するなんてできっこないよ!」

いや、これだけならまだましなのです。もっとひどい考え方をする人がいます。「今は民主主義が実現していないのだから、そのためにはあらゆることをしなくてはならない。そう、民主主義を実現するためには、時には非民主主義的な行動すらとっても良いのだ!」 すでにお気づきの方もいるでしょうが、これは軍事政権の考え方と同じといってもよいくらいです。こうなるともう民主主義は自分のしたいことを正当化するための口実以外の何物でもなくなってしまいます。民主主義を実現するためではなく、民主主義の実現を先延ばしにしていると見るべきでしょう。

ですから、本当に民主主義を実現しようと思うならば、ここまで述べてきたすべての考えや態度を否定しなくてはなりません。非民主主義的な態度からは民主主義は生まれません。また、非民主主義的な行為によっても生まれません。そして、民主主義はみなさんから切り離された遠くにあるものでもありません。それはみなさんの足下にあるものであり、実現するとするならば、今、ここから実現しなくてはならないものなのです。

言い換えるならば、民主主義が実現するかしないかは、みなさん一人一人の行動にかかっているのです。軍事政権だけにその責任があるのではありません。またアウンサンスーチーさんだけが負うべき義務なのでもありません。みなさんの行動や言葉のひとつひとつが民主化に関係あるのです。ビルマの民主化に必要なのは「どこかの民主主義」「誰かの民主主義」ではなく、「ここからの民主主義」「あなたの民主主義」なのです。

「ここからの民主主義」「あなたの民主主義」といいましたが、実はわたしは同じようなことをすでに述べています。それは、民主主義の知識や経験を持つことと、実際に自分の国、自分の状況に当てはめることとの間には大きな隔たりがある、と述べたときのことです。つまり、「ここからの民主主義」「あなたの民主主義」とは、民主主義という考え方を本の中の知識やすでに終わった経験として片づけてしまうのではなく、生きたものとして、少し難しい言葉を使うならば運動し生成するものとして、自分の状況に具体的に当てはめて実践することなのです。このようにある概念を自分の状況に当てはめて解釈することを文脈化(Contextualization)と言います。この文脈化と民主化の関係については別の機会にお話したいと思います。

さきほど、「民主主義は究極の目的なのであり、その実現のためならばたとえ非民主的な行動であっても許される」という考えについてわたしは非難しました。これはしばしば「目的のためならば手段を選ばない」とされる考え方ですが、ここでもう一つ重要なことをわたしは指摘しておきたいと思います。それは民主主義は目的ではない、ということです。民主主義は、みなさんが望む社会を作り上げるための手段なのです。この区別をしておくことは大事です。民主主義が目的となってしまったとき、なにが起きるか、わたしはすでにお話しました。民主主義そのものが目的になったとき、かえって民主主義がないがしろにされるのです。

民主主義を目的としてしまうことの弊害はそればかりではありません。民主主義は実のところ、そんなに美しいものではありません。民主主義の実践は、ひたすら我慢の連続です。強い忍耐力が必要です。そうした日常的で人間的な営みこそが、民主主義の真の姿です。ですが、民主主義を目的としてしまうと、そのような現実的な姿が失われてしまいます。どこか美しく立派なものとしてだけ現れて、それを維持するにはたゆみない努力と苦しみが必要であるということが忘れ去られてしまうのです。そして、ついにはそのような民主主義の本当の姿に失望するに至ります。「わたしの望んでいた民主主義はこんなものではなかった。誰も彼もが言い争いしている、そんな醜い状況が民主主義であるはずがあろうか?」というわけです。

ですが、実際はそれこそが民主主義なのです。どんなに激しく醜く意見を戦わせようが、暴力に訴えない限り、それは民主主義的なのです。民主主義は、芸術でもなければ、美学でもありません。それはわたしたちの生活が芸術でもなければ美学的でもないのと同じです。ですが、民主主義を目的とする人々は、民主主義を理想の美として思い描きます。それで、現実の有様に落胆してしまうのです。落胆するだけならば、まだいいほうです。落胆のあまり民主主義の敵になってしまう人がいます。強いリーダーが現れてこの「醜い」混乱を一掃してほしいと望むようになります。

民主主義を目的とすることの害がもう一つあります。それはどのような民主主義国家を作りたいか、どのようなビルマで生活したいのか、そうした将来のビジョンについて考えることが阻害されるということです。これは民主主義を手段でなく目的として捉える限り当然のことです。将来の民主国家ビルマのイメージは、民主主義を手段として捉えてはじめて思い描くことができます。

ようやくここで、わたしははじめの問いに戻ってきました。わたしはそこでこのように問うたのでした。「どうしてビルマの民主化活動家は民主主義を求める割に、将来の民主国家のビジョンについて語らないのだろうか」と。この問いに関してわたしはいろいろと論じてきましたが、答えを簡潔に要約すれば次のようなものです。「語らないのではなくて、語れないのだ」と。そして、どうして語れないのかといえば、民主化のため積極的な理由からそうしているのではなく、むしろ、恐怖や自信のなさ、あるいは無知からといったような民主主義とはなんの関係もない、それどころか非民主主義的な理由からなのでした。そこで、わたしは先だっての短い答えに次のように付け足すとしましょう。「ゆえに、語れないという状態を脱して、将来の民主国家ビルマについて語れるようになることこそが、本当の民主化の始まりなのである。さらに、他の人がやはり将来の夢や希望を自由に好きなだけ語れるように励ますことこそが本当の民主化活動なのだ」と。

ですが、ここで多くのビルマ民主化活動家がこう言って反論する可能性は大いにあります。「いや、わたしたちはそのような考えに反対する。わたしたちは将来の民主国家について語れないのではない。語ることはできるがあえて語らないのだ。それには2つの理由がある。ひとつにはわたしたちにとって民主化は急務なので、将来の夢を語ることなどにゆっくり時間を費やしている余裕はないのだ。そんなことは、民主化が達成されてから、ゆっくりやればよいことだ。もうひとつの理由は、わたしたちの国の成り立ちに関係がある。ビルマにはさまざまな民族、さまざまな信仰を持つ人々、さまざまな考えを持つ人々がいる。これら多様な人々が、将来のビルマのについて好き勝手なことを言いだしたら、それこそ収拾がつかなくなる。それどころか、民主化以前にわたしたち国民が分裂してしまうかもしれない。民主化のためにはすべての国民が力を合わせなければならないというのに! だから、将来の夢を語るというのは本当は危険なのだ。民主化運動を破壊しかねないのだ。あえて語らないという態度には、あなたの言葉を借りれば『民主化のための積極的な理由』があるのだ。つまり、それは民主化を実現するためにわたしたちが取っているストラテジーなのだ。」

言わしてもらえば、これこそ、もっとも有害なストラテジーです。まず第一に、このストラテジーにおいては、民主主義は単なる国民をまとめるための餌、口実と成り下がっています。第二に、民主主義の根幹である意見の多様性の尊重という考えを蔑ろにしています。自分と異なる人々の意見を封じ込めるために、民主化を利用しているのです。第三に民主主義は手段に過ぎないということをまったく理解していません。民主主義はある望ましい社会を作り上げるための手段なのですから、その社会像に応じてまったく違う形態を取りうるのです。ゆえに、その社会像が定まっていなければ、どのような民主主義が必要なのかもわかりませんし、また民主化を求める人々の間で、どのような民主国家を作りたいのかという点で意見がバラバラならば、それに応じてその求める民主化もバラバラで一貫性のないものになるのです。ですので、将来のビルマに関して意見を一致させることなくして、民主化に団結などありえないのです。これに関しては具体的な例をひとつあげれば十分でしょう。連邦制の解釈は、ビルマ民族とそれ以外の民族とでは大きく異なり、またその違いに応じて求める民主主義も異なりますが、その解釈の違いこそが、いまだに民族間の全面的な協力を妨げているのです。

ゆえに、民主化においては、将来どのようなビルマに暮らしたいか、どのような国であってほしいかをまずとことん議論すべきなのです。そして、その将来のビジョンが明確になればなるだけ、どのような民主主義、どのような民主化が必要なのかがより一層はっきりするでしょうし、また多くの民族に共有されればされるだけ、民主化精力の団結は強固なものとなるでしょう。

もちろんこれは一部の指導者だけの仕事ではありません。民主化を担うすべての人が自分の立場から、自分の「文脈」に即して行うべきことです。どんなつまらないこと、些細なことでもいいから、できるだけ多くの意見を出し、議論し、共通の「将来の民主国家ビルマ」をまず最初にイメージすべきなのです。自分の意見を言うことを恐れていてはいけません。あなたの意見はあなただけにしか言えないのですから、あなたの意見が欠ければその分だけ、将来のビルマ像は不完全なものとなるのです。

では、「将来の民主国家ビルマ」をイメージするとはどういうことなのでしょうか。それは決して難しいことではありません。次回はこれについて「文脈化」という考えを手がかりに考えてみたいと思います(要望があればの話ですが)。

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